アニメ『ゴブリンスレイヤー』にみる世界の構造
先日、ふと目が覚めて暇を持て余すことになった私は久々にアニメをみた。
huluの「アニメ」カテゴリーをだらしなく眺めていると目に留まったのが、タイトルにもあるように『ゴブリンスレイヤー』だった。
実はこのアニメをみるのは初めてではない、数か月前に追っていたが途中でアニメを楽しむ気力すら失って途中で追うのをやめてしまったのだ。
この物語は他のファンタジー作品に比べると異質な点がある。
主人公が「勇者」ではないのだ!
オーバーロードのように主人公が悪役というわけでもない。
一般に軽んじられるゴブリンという小物に対し、執念深く、しかし戦略的に殺しにかかる一人の男が主人公として描かれている。
さて、突然だが話を少し現実世界に移そう。
あなたは「今、日本を率いている人は誰か?」と聞かれると、あなたはA首相だと答えるだろう。
では「最寄り駅の交番で、市民を見守る警察官は誰か?」という質問はどうだろう。
おそらくあなたは知らないと答える。
そして、もちろん私も知らない。
実はこのゴブリンスレイヤーという作品のヒーローは後者のタイプの人間なのだ。
世界レベルでみれば小さな、しかし身近で個人にとっては大きな危険をはらむ問題に取り組む彼の役割は意外にも大きい。
もちろん、この作品の世界にも、魔王を討伐する勇者は存在する。
そして、私が先ほど引き合いに出した首相を勇者と、警察官をゴブリンスレイヤーと比較すると、各々が取り組む問題のレヴェルという点で共通点が見えてくる。
つまり、世界には著名で様々な指導者がいる一方で、より身近な部分では無名のヒーローが私たちの日常を守っている、ということだ。
ところで、この作品の勇者は自分の力の限界を感じている。
「世界は救えても、全ての人々を救うことはできない」
と本能的に理解しているのだ。(ピクシブ百科事典)
こうした自分の力が及ぶ範囲を、過大評価せずに理解することは、こちら側の世界の人間にとっても必要なことである。
指導者が、自分の能力を過信して傲慢に振舞うことは許されない。
そして、私が最も強調して述べておきたいことは、
市民が、指導者の能力を過信してすべてを委ねることも許されない
ということである。
香港紀(1)成田空港編
今回使用したのは香港エクスプレス。いわゆるLCCというもので、機内食や荷物の預け入れなどの付加サービスを無くせば、格安で航空券を手に入れることが出来る。
技術の進歩や新たなビジネスモデルのおかげで今や誰でも海外旅行のハードルが下がったのは嬉しくもあり、悲しくもある。
後方の座席の窓側なので早めに席につき、窓の外に目をやる。
作業員や空港の特殊な車両をぼんやりと見ていると、初老の男性が隣に座った。
再び窓の外の方へ目を移すと今度は隣でなにかやりとりがされ、2人の若い女が座ってきた。どうやら先ほどの彼は座る席を間違えていたらしい。
乗客の殆どが中国人らしく、周りの人の会話に耳をすませて楽しむことも出来ないまま、暇になってスマートフォンを開く。
SNSにあげられた友人の戯言に目を通し、心の中で軽く悪態をつきながら機内モードにする。
アナウンスが始まった。CAの話す英語のリズムやスピードが中国語のようだった。チャングリッシュとでも名付けよう。強気にも感じられる中国語はあまり耳障りの良いものでもないので音楽を聴くことにした。
もはや定番とも言える中森明菜の「北ウィング」を流し、およそ5時間半後に降り立つ香港へ思いを馳せ、離陸を待つ。
10分ほど経ったであろうか...
滑走路へアプローチした機体がエンジンを轟々と回し始め、ゆっくりと加速して行った。小刻みに揺れながら今日の旅の友は徐々に浮く。そして地面を離れた。
離陸時のフワッとした独特の感覚に少し興奮しながら東京の街を見下ろす。日本の友人のことが思い起こされる。さあ、旅の始まりだ。